恋人まで、あと何cm?





「セナッ」
 部室に入ってきたまもり姉ちゃんの悲鳴のような声に、中にいた皆の視線が一斉に僕へと向けられた。勢いで立ち上がってしまった僕は、入り口近くでまもり姉ちゃん目が吊り上げてこっちを見てて驚いた。
 ぼ、僕なにもしてないよ!
 慌てる僕に小走りに近寄ってきたまもり姉ちゃんが、急に腕を引っ張った。
「危なっ!!」
 倒れるっ!
 痛みを予想した体は緊張で固まったが、いつまでたっても来ない衝撃につむってしまった目を開ける。
 目の前には白いシャツ。
 恐る恐る顔を上げると、呆れたような顔のヒル魔さんが見えた。
「何やってんだテメーは」
 予想以上の顔の近さに、一気に頭に血が上る。
「ス、スミマセンッ! ありがとうございました、もう大丈夫ですからっ」
 突進してきた(ように僕には見えた)まもり姉ちゃんを思わず避けようとバランスを崩した僕を、ヒル魔さんが倒れる前に抱き寄せてくれたんだろう。
 さすがヒル魔さん反射神経いいなぁとか、少し離れてたのに引き寄せてしまえるなんて腕長いんだぁとか、そういえば足が床に付いてないって事はヒル魔さんが抱え上げてくれてるからなんだぁとか、のんびりしたセリフが頭の中に流れていたが、現実には離れようにも放してくれないヒル魔さんの腕の中でジタバタもがいていた。
「足フラついてたぞ。捻ったりしてねーだろうな」
「大丈夫ですっ」
「顔も赤いな。・・・少し熱っぽいか?」
 ヒィーーー!!!
 か、顔が超至近距離に!!!
 もしかしなくても、この状態はいわゆる『おでこでこっつんこ』状態なんじゃ?!
「・・・っ、セナから離れてよ、この悪魔!!」
 まもり姉ちゃんに掴まれた腕の痛みで、パニック状態から抜け出せた。
が、抜け出せなかった方が良かったかもしれない。
 ・・・我にかえってやっと気付いた、なんとも言えない微妙な視線が・・・。
「早くセナを放して」
「足元フラついてんだ、急に動かすのは危ねぇだろ」
「貴方の側にいる方がよっぽど危ないんですっ」
 掴まれた腕も痛いが、突き刺さる視線も同じくらい痛い。
「それに、セナをいじめないでって言ったでしょう!」
「いじめてねーよ」
「さっき、髪の毛引っ張ってたじゃないっ」
 さっき?何かされたっけ?
 頭を動かすと、僕と同じような疑問を浮かべた面々が見えた。
 さっきって、まもり姉ちゃんが入って来た時の事だよね?
 えっと、確か部誌を書いてて分からない所があったからヒル魔さんに聞きに行ったらあちこち間違いを指摘されちゃって。横で見てもらいながら最初から書き直してたら、僕の髪の毛が覗き込んでたヒル魔さんの顔に当たってくすぐったいって文句言われて。 ・・・もしかしてアレの事かな?
 誤解を解こうとまもり姉ちゃんに呼び掛けた。
「イジメられてなんかないよ、まもり姉ちゃん」
「正直に言っていいのよ、セナ」
「ホントに違うんだって。分からない所があったから教えてもらってただけだし」
 一生懸命説明するが、『そんな人庇わなくっていいのよ』的な表情が信じませんと言っていた。どころか、相変わらず解ける気配がないヒル魔さんの腕をますます険しく睨みつけている。
「いいかげんにセナを放してっ、怯えてるじゃない!」
「怯えてる?」
 聞こえた声に不機嫌な響きが混じったような気がした。
「そうよ。きっとヒル魔くんが怖くて動けないのよ」
「糞マネはコイツが怖がってるって言うんだな」
「決まってるじゃない」
「ふーん・・・俺が怖いか、糞チビ」
 そ、そんな急に振られても!
 ヒル魔さんもまもり姉ちゃんも、あたふたしだした僕の答えをじっと待っている。
 ・・・『ヒル魔さん』を怖くないとは決して言えないけど、今現在怖がってるかと聞かれたら・・・
「・・・怖くない、です」
 ぽつりと呟いて顔を上げると、ショックを受けたまもり姉ちゃんが驚愕の表情で僕を凝視していた。僕の腕を掴んでいた手から力が抜けていくのが伝わってきた。
「今はだよ、今は怖くなかったんだよ」
 慌てて強調した『今は』という部分にまもり姉ちゃんの強張りも少し緩んでホッとしたが、今度は自分を包む気配が不穏さを帯はじめ、自分が言ったセリフのまずさに血の気が引いていく。
「今はって事は、いつもは怖いってこったな、糞チビ?」
「い、いえ〜・・・いつもって訳じゃ・・・」
 ピクッ
 しまった!これじゃあ怖い時もあるって言ってるのと一緒っ!!
「そんだけジタバタ出来てりゃ、足の方は大丈夫だな」
 そう言うと、ヒル魔さんはそっと足を降ろしてくれた。
 ・・・正直放り出されるかと思ったから、肩から力が抜けた。
 それに、放してもらってホッとしたのに、どこか寂しいと感じてしまうのは何故だろう?
 添えられていたまもり姉ちゃんの手がヒル魔さんから僕を引き離すように引っ張って再度よろけてしまったが、さすがにココでこけては恥ずかしいと踏ん張った。
「ごめんなさいセナっ、大丈夫だった?」
 引っ張ったまもり姉ちゃんが顔を青くして詰め寄ってきた。
「おい、ホントに大丈夫かよセナ」
「ひねったりしてない?」
「フゴッ?」
 今まで口を挟めなかった皆が恐る恐るといったように声をかけてくれる。
「大丈夫だよ、まもり姉ちゃん。スミマセン、大丈夫です。僕がトロ臭いのが悪いんです」
 言ってしまってから、改めてそうだよねと落ち込みそうになる。
 もとはといえばランニングで走ったコースを忘れた僕が悪いんだし。忘れたというか、部誌に書こうとして思い出せなかったからヒル魔さんに聞きに行ったんだった。
 机の上に置かれたままの部誌を手に取り提出しに行こうとしたが、他の訂正先に済ませようってしてたから肝心のランニングコースを書けてなかった事を思い出した。
 手元の部誌を見て溜息をつく。本当に僕って主務に向いてないんだな。
 これを書き上げない事には提出も出来ないし帰る事も出来ない。
 チラッと見たヒル魔さんを見たが、ノートパソコンでの作業を再開していて、同じ質問が出来るような雰囲気ではなかった。
 最初から他のメンバーに聞けばよかったなと思いつつモン太に声をかける。
「ねぇモン太、今日はどこ走ったっけ?」
「お? えーっと確か」
「ケルベロス!!」
 アオォォォーン・・・・
「ヒ、ヒル魔さん?」
「また次も走るコースだ。身体で覚えておけ」
 ・・・それって、それってっ!!
「もっかい走ってこい!」
 ガウガウガウッッッッ
「ハィィィィィ〜〜〜!!!」
 やっぱりぃ!
 まもり姉ちゃんの大声が聞こえてきたけど、ケルベロスに追い立てられて走り出した僕にはもうそれを気にする余裕などあるはずがなかった。



 ボロボロになって帰ってきた僕を泣きながら迎えてくれたまもり姉ちゃんは、何も言わずにフラフラだった僕を家につれて帰ってくれた。
 その晩。疲れきったはずなのに、今日のヒル魔さんの行動が気になってなかなか寝付けなかった僕は翌日の朝練に遅刻してしまい、またケルベロスの追走付きで走る破目になってしまった。
 やっぱり怖いよヒル魔さん! どうしてあの時「怖くない」なんて思ったのかな。・・・・・・どうして僕はあんなにドキドキしたのかな。それに、寂しいって思っちゃったのは・・・・・・
 あー、やめやめ! それを考えてて夕べは眠れなくなっちゃったんだから。僕は言われたとおりに走るだけだ。
 そう思った僕は、あの後の事を教えてくれようとしたモン太に「聞かなくても分かるからいいよ」と断わった。ヒル魔さんに聞き流されて更に怒るまもり姉ちゃんしか想像できない。
 お前がそう言うならと言って、モン太はそれ以上その話題に触れようとしなかった。
 だからまもり姉ちゃんが、『スキンシップになんか慣れてないセナが、あんなに大人しく人の腕の中に納まってるなんておかしい』と主張した時にヒル魔さんが妙に大人しくなったので、まもり姉ちゃんもそれ以上怒れずに黙ってしまったと聞いたのはずっと後になってから・・・



                                    Fin.


                               2007. 5. 1




部誌って主務が書くモノなの?とか。
ランニングコースって絶対必要かとか聞かないように(笑)
超タイトルが甘めですが、中身がこんなんで・・・。
「何cm」というより1か0だね、これは。
・・・それでもヒルセナだもん(涙)