フレグランス




『夏場に1番居たくない場所は?』
1年前なら補修教室とセナは答えただろう。
高校生になったセナは言い切れる。
それは「部活後の部室だ」と。


暑い。
蒸れる。
のぼせる。
実際、セナは倒れる寸前だった。しかし、悲しいかな。グランド脇にはまもりがいて、どぶろくと何やら打ち合わせをしていた。彼女がいる場所でメットは脱げない。
デスマーチでつけたスタミナも、湿度の高い日本の夏の前に尽きそうな勢いで削られていく。
「アイシールドは上がりだ」
かけられた声に振り向くと、ヒル魔が行けと目で促してくれていた。
グランドのメンバーに手を振り挨拶し、『主務』へ戻るためにセナは部室に向かった。
部室に入り、降り注ぐ太陽光と足元から立ち上る熱気から逃れて初めて、予想以上に自分の疲れをセナは自覚した。ふらつく足に、ヒル魔の見極めの正確さを実感する。
メットを外し、開放感からでた深呼吸は大きく深い。だがモタモタしているとメンバーが戻る前にまもりがくるので、セナなりの最大速で主務Tシャツに着替える。
「セナ戻ってる?」
物音に慌てて着替えをロッカーに投げ込み後ろ手で閉めたまさにその時、間一髪、ドアが開きまもりが部室に入ってきた。
「ヒル魔くんの頼み事ってなんだったの?」
「キミドリスポーツまで買い物にね」
怪しまれないようにとルーレット台に乗せられたテーピングその他は、ヒル魔が用意したものだった。
「そういえば無くなりそうだったわね、ありがとうセナ」
微塵も疑っていない言葉に胸が痛むが、まもりに打ち明けるには今少しセナは時間が欲しかった。
「外は暑かったでしょう?いらっしゃい」
まもりに手招きされ近付くと、招かれたのと逆の手に握られたスプレー缶が目に入った。
見たことのあるソレにセナは思わず後ずさる。
「あっ、今度は無香料だから大丈夫よ!」
ほらほらと見せられた缶には確かにそう書かれていたが、女子が使う物の無香料なんてホントだろうかと疑ってしまう。
「もー、本当だって、ほら!」
軽く手首に噴射させると、まもりはセナに嗅いでみろとばかりに腕に突き出した。
「いやいやいや、そこまでしてくれなくても。ホントみたいだし」
「本当に無香料です!でもセナが逃げちゃうのも分かるわ。この前は私が悪かったもの」
「ううん、まもり姉ちゃんは悪くないよ」
そう、まもりは悪くない。悪かったのは汗くさかった自分だ…


『……なあ、セナ』
『……なに、モン太』
『……なんかお前からさ』
『……あぁうんそうだよね』
朝練後の移動中。ほのかに、だが確かに感じる香りがモン太の鼻孔をくすぐっている。
香りの発生限は、小柄な体をさらに縮こまらせ隣を歩いていた。
『……運が悪かったな』
『……そうだね』
セナが汗だくで可哀相だらかとまもりにかけられた制汗スプレーは、高校男子には不似合いな『フローラルな香り』だった。


『汗だくで可哀相』とは言い換えれば『汗くさい』である。よって、セナが冷却スプレーの類いだろうと思ったモノが実は制汗スプレーだと、噴射された香りでやっと気付いたが後の祭り。本人もかけてから間違いに気付き平謝りしたものの、濡れタオルで軽く拭う程度では香りは落ちきれなかった。あのあと、女子みたいだと散々からかわれたセナが逃げ腰になってしまったのはどうしようもないだろう。
および腰ながらもあらためてスプレーをかけてもらい、ふと思いついたセナがまもりに尋ねる。
「こないだのって、まもり姉ちゃんのだよね?」
そのはずだが、まもりからあんな香りを感じたことがないと、首を傾げるセナにまもりが苦笑する。
「学校では無香タイプ使ってるから。あの日は間違えて持ってきちゃったの」
つまり、学校と休日用を使い分けているのだ。休日まで一緒じゃないセナが知らないのは当然だった。
「はーっ、あっちぃーーー!」
「タオルタオル」
「みんなお疲れ様。じゃあセナ、後でね」
練習を終えたメンバーと入れ違いにまもりが部室を出ていく。
先程着替えたセナも、皆と同じ制服に手を伸ばす。着替えたばかりなのに変な感じと思わないでもないが、これで帰宅するのもおかしな話である。
それにしても…
Tシャツから制服のセナが先に着替え終わり一息つくのと同時に、馴染みの感覚が鼻を刺激してくる。自分も同じならたいして気にならないが、幸か不幸か先程スッキリしてしまった。さほど広くもない部屋に押し込められた、運動直後の高校男子十数人。
『……汗くさい』
まもりが置きタイプの消臭剤を何個か用意しているのをセナは知っている。だが現在進行系で充満していく匂いに、その効果は追い付いていないのは明らかだった。
『どうして窓をつけてくれなかったんですか………』
窓無し部室の設計者のヒル魔は皆と同じに汗だくなのに、表情からは微塵も疲れを読み取らせない。
ちらっと盗み見のつもりでセナが横目を向けた次の瞬間、ヒル魔が振り向き目があった。
『気付くの早過ぎっ!』
内心焦るセナを鼻で笑ったヒル魔に、引きつりながらもなんとか笑い返す。
『見抜かれてるよねー、多分…』


「ヒル魔さーん、伸びるからヤメテクダサーイ」
斜め後ろから引っ張られた襟がセナの首にキュッと食い込む。
「伸びるほどひっぱってねーだろ」
「その前に引っ張らないで下さいって」
手にしたコップをそっとローテーブルに置く。
「飲み物持ってる時は危ないですって」
「こぼしたら拭けよ」
「…このラグ、拭いたらコーヒーの染み落ちます?」
「ダメなら捨てる」
「気に入ってるから捨てちゃ嫌です」
「ならこぼすなよ」
「だーかーらー」
部活後、まっすぐ向かったヒル魔の部屋で、お気に入りのラグの上でセナは足を伸ばして座り、食後のアイスコーヒーを飲んでいた。
ソファーに座るヒル魔。前に置かれたローテーブル。ソファーとテーブルの間、ヒル魔の足元にセナ。夕食後のくつろぎタイムである。
上体を屈めたヒル魔が、引き寄せたセナの髪をすく。
「今日は甘くせぇ匂いしねーな」
「もう強制シャワーなんて嫌ですから」
先日の「フローラル・セナ」をお持ち帰りしたヒル魔は家に着くなりセナを風呂場にほおりこみ、服を脱ぐ間も与えずシャワーをかけたのだ。
ずぶ濡れにされたセナは当然怒ったが、それ以上に不機嫌だったヒル魔に折れるしかなかった。
「ズボンなんて張り付いちゃって気持ち悪いし、脱ぐの大変だったんですから」
「ちゃんと脱がしてやったし洗ってやっただろ」
やった本人が涼しい顔で言うことではない。だが悲しいかな、セナにはヒル魔を言い負かせるほどの語彙も無ければ頭の回転の早さも無く、またそれを口にする度胸も無かった。
振り向かないことで『嫌だった』とアピールするのが精一杯。それも髪を好きにさせている時点で、許してしまっていると言っているのと同じだったが。
それにしたってセナも好きでフローラルな香りをまとったのではない。むしろ1番迷惑したのがセナなのに。
「なんかすっごくリムジン…」
「理不尽って言いてーのか」
「そう、リフジン!」
「発音おかしーぞ」
軽く髪を引かれクスクス笑われる。
ふるりと頭を振るが、ヒル魔は髪に指を絡め続けた。
それもそうだろう。本当に怒っているならセナは今ここにいない。やり方に驚きはしたが、乱暴されたわけでなし。
結局折れるのは自分なんだなと思うも、セナもヒル魔に触れられるのは好きだから。
髪を取り戻すのを諦め、ヒル魔の好きにさせようとセナがソファーに背を預けると、ヒル魔がセナの髪に鼻先を埋めた。
「……十分なんだよ」
「ヒル魔さん?」
「テメーはいつものまんまで十分甘くせーんだから、余計な匂いつけてんじゃねーよ」
耳から入った言葉が理解できると同時にセナの顔は猛烈に熱くなった。
「ぼ、僕、なんにもツケテマセンヨッ?」
「だから付けるなっつってんだろ」
首筋にヒル魔の息がかかる。エアコンが効いてる部屋なのに、セナは汗が吹きでるかと思うほど体温が上がっていく。
「……ヒル魔さん、エロクサイです」
「なんだそりゃ。…まぁ、褒め言葉と受け取っとくか」


翌日。
洗面所に立つヒル魔を見て、セナはふと気付いた。
「ヒル魔さん、それ整髪料ですよね?」
「今俺がなにしてるか見えてねーのか」
「見えてるから聞いてるんです」
髪を整える手も止めずに返される。
「整髪料って普通匂いキツクないですか?」
あまり使ってないはずの父親でさえ覚えのあるかぎりもう少し鼻につく匂いがしてたし、髪をコテコテに固めた教師なんかすれ違っただけで『刺激臭か?!』と思うほど鼻が痛くなる。
「作り物クサイ匂いは好きじゃねー」
側に寄ってやっと気付けるヒル魔の香り。たっぷりつけられても、漂ってくるのは微かで後に残らない。制汗剤のフローラルがお気に召さないのも納得である。
「ヒル魔さんのイイ匂いって整髪料だったんですね」
汗臭いのは勘弁だが、こんな香りはちょっといいなと憧れないでもない。似合う似合わないは別として…
「そうだヒル魔さん、僕特になにもつけてませんけど、どんな匂いしてます?」
『セナの匂い』と言われて気になっていたのだ。汗臭いとかだったらこまめに汗拭かなきゃと身構えたセナだったが、
「……乳臭い?」
予想を超えたヒル魔の台詞に膝から力が抜けた。脇からきた変化球が思いきりセナをえぐる。
「…………汗臭いよりヒドイ」
確かに牛乳は飲んでいる。セナも男だ。やはり身長は伸ばしたい。しかし、だからといって乳臭いはないだろう!
振り向いたヒル魔が目線を下げる。床になついていて耐えるセナを見て、『いたずらっ子』みたいだとセナが評する笑み(悪魔の笑みとの意見多数)がヒル魔の顔に浮かんだ。
「答えてやったのに礼もなしか」
「『乳臭い』なんて言われても嬉しくないです…」
牛乳飲むの止めようかな〜とたそがれるセナ。
「ワガママなヤツだなテメーは」
ヒル魔さんにワガママって言われた!信じられない!
口に出さなかった抗議は顔に出たらしい。
しょうがねーなと言いたげに肩をすくめ、ヒル魔は少し考えるように目を閉じた。
「……」
「……」
「……ガキ臭い?」
「それもう『匂い』じゃないですから!」
ヒル魔さんの、ヒル魔さんの、バカーーー!!!




                                 2009. 7. 26

                                   Fin.



夏ですから!
中学も高校も文化部だったので、
運動部の部室は全く分かりません。
デビルバッツの部室図公開とか、
今からでもいいからしてくれないでしょうかね?