君がもどかしくて



 恐る恐る伸ばされる指先。触れるか触れないかのギリギリで感じる動きがくすぐったい。
 セナが慎重に延ばす塗り薬がうっすらとヒル魔の肌を白くしていく。
「痛くないですか?」
 聞いてくるセナのほうがよほど痛そうな顔をしているとヒル魔は思った。
「なんともねーよ」
 頭を撫でてやってもその表情は晴れようとしない。こうなると分かっていたから隠したというのに。


 朝練の始まる少し前。栗田達より後、セナ達より前のタイミングで部室に着いたヒル魔が、入口を見つめてからロッカーを開けた。荷物をほうり込み、シャツのボタンを外し終えた所で再び入口に視線が投げられる。
 足音が聞こえたと思ったのは勘違いだったかとヒル魔がシャツを脱いだその時、ガラガラと音を立ててドアが開いた。
「あっ、ヒル魔さん!おはようございまーすっ」
「…おう」
 走った後の息を整えたなごりで頬を上気させたセナは、目にしたヒル魔の何かに違和感を覚えて首をかしげた。
 ヒル魔とて細身に見えても、そこはスポーツマン。しっかりついた筋肉はうらやましいかぎりで、セナの目に焼き付いたスタイルとどこも違わない。
 では何がセナのカンにひっかかったのか?
「何ボケーっと突っ立ってんだ。さっさと入って閉めろ」
「あ、はい」
 言われて後ろ手でドアを引きながら、セナはヒル魔から目が離さない。
 ロッカーに移動しつつヒル魔をチラ見するセナをヒル魔が無言で急かす。
「…着替えないんですか?」
「うるせー」
 ますます強くなる違和感に、セナが叱られるのを覚悟で向き直る。
 別にアクセサリーが増えたとか見慣れない服を着ている訳でもない。
 セナから見える所には何も……。
 クルッ
 バッ
「ヒル魔さん、脇、どうかしました?」
「別にどうも?」
 回り込もうとしたセナをかわした人間の言うセリフではない。
 怪我をしている動きではなかったものの、セナから遠ざけた側の腕は下ろされたまま。
 ジリジリと互いの間合いを計るそれは、まるでオフェンスとディフェンスの攻防を彷彿させる空気だったが、勝負は一瞬でついた。
 脇のすり抜けに成功したセナの目が隠されていた場所を捉える。
「うわっ!」
 セナの大きな目がさらに丸く見開かれ、ついで歪んだ。
「痛そう…」
 もう隠そうとしないヒル魔の脇腹にあったのは、それはそれは鮮やかな赤だった。


 次々来る部員の好奇の目を避けようと、ヒル魔とセナは保健室に移動した。かばんから無造作に取り出された鍵にセナは半目になるが、特に何も言うことなくついてくる。
 薬やピンセットなどの道具が保管されている棚も施錠されていたが、いつの間にかヒル魔が手にしていた鍵で難無く開いた。
 ガーゼやテープを用意したところで、改めてヒル魔が脇をさらした。
 セナの目が痛々しいと細める跡はうっすら赤いなんてレベルじゃない鮮やかさで、「虫刺され」で済ますには無理がある派手さだ。
 もちろんヒル魔もちゃんと薬を塗っていたのだが、何故かここだけかゆみが引かず、どんどん赤みも増してしまったのだ。
「見た目ほど痛くもかゆくもねーから」
 そう言われても不安なのか、セナの薬を塗る指先は羽のような軽さで肌を撫でていく。
 だが慎重に進めても塗る範囲はたかがしれている。すぐに薬を塗り終えたセナが『やり終えた』といった様子で満足そうに笑う。しかし、その笑顔はすぐにしかめっつらに変わった。
「怪我をほっといちゃダメですって言ったのに」
「たかが虫刺されだろ」
「もう虫刺され超えてますよ」
 大きめに切ったガーゼを当てると、赤い部分がすっかり隠れた。
「皮膚科行きますよね?」
「いや。多分もう落ち着く」
 から行かない。そう言ったヒル魔に、セナの眉が一層寄った。
 実際、昨日よりもマシなのだ。こまめに薬を塗ればかゆみも赤みもひいていくだろうとヒル魔は思っている。それは刺された本人の体感から出た言葉だったが、セナからは諦めのため息がこぼれた。
「また、悪化させてもしりませんよ」
 最初の単語に強いアクセント。思い出せとの響きに心当たりはあったけれど、ヒル魔の片眉をあげただけの返事にセナは2度目のため息をついた。
 薬を片付けるセナを見ていると、ヒル魔の内に面映ゆい感触を広がっていく。シマッタと思うものの、こうなってしまってからではどうしようもない。
 セナと付き合い始めて感じるようになったくすぐったさはとにかく慣れなくて落ち着かないが、悪くはないのだ。ふとした時に向けられた笑顔だとか、見上げてくる時の目に浮かぶ恥じらいがなんか見せられた日にはムズムズも最高潮である。
 しかし、ヒル魔が苦手に感じるムズムズもあった。
 スポーツを、ましてやアメフトなんてしている人間が怪我をしないなどありえない。切り傷擦り傷くらいは日常。それはセナだって同じなのに、ヒル魔が怪我をするたびに泣きそうな顔をするのだ。
 あれは何度見てもダメだ。今だって、言い返す言葉の中に聞き取れた心配の色。こうなると分かっていたから隠そうとしたのに。


 薬を片付け振り返ると、ヒル魔は腕を上げ下げして脇の調子をみていた。無言で考え込むヒル魔に話し掛けようなんて普段なら出来ない。でも今は違った。
「僕がヒル魔さんに何か言うなんて生意気なのは分かってますけど」
 ちらりと寄越された視線に肩がフルッと揺れたが、セナは俯きそうになるのをグッとこらえた。
「うるさく言う位させて下さい」
 ヒル魔が自己管理に手を抜いているはずがないのに、たまにこんなことになっているのを見てしまうとセナまで気になってムズムズして落ち着かないのだ。
 セナとてこんなささいな虫刺されにおおげさだし、女々しくて情けないなぁとは思うのだ。だが、心配なものは心配なのだから言わずにいられないのも分かって欲しい。
 少しの沈黙のあと、ヒル魔の指先がちょいちょいと上を指すのが見えた。
 上げていたはずの顔が下を見ていると気付いたセナが慌てて前を向くと、ポンと頭にヒル魔の手が乗った。
「これから気をつけるから、そんな顔するな」
「…そんな顔って」
「情けねー顔」
「させてるのヒル魔さんですよ」
「だから気をつけるっつってるだろ」
 わしわしと髪をかきまぜられてセナの頭が揺れる。
「気をつけるって言葉だけじゃ不満か?」
 覗き込まれてブンブンと首を左右に振った。
 今までヒル魔は「んー」だの「そーだな」なんて生返事ばかりだった。これはもしかして言っていいんだろうか…。
「…約束ですよ?」
「おー」
 ニッと笑顔を向けられて、ようやくセナの頬もほにゃんと緩んだ。


「練習行くぞ」
「はい」
 立ち上がったヒル魔にうながされてセナは先に保健室を出る。
 入口を施錠したヒル魔と並んで歩きながら、セナはホワホワとした幸せを感じていた。
 例え他愛もないことでも「指図」とか「束縛」ととられたら嫌だなという思いから、「約束」を避けていたセナは「初めての約束」が嬉しくて嬉しくて分かっていなかった。
 ヒル魔の「気をつける」は、「すぐ手当する」や「怪我を隠さない」ではないということに。
 また新たな傷跡を見つけたセナに「ごまかされた」と泣き出されオロオロするヒル魔に、誰も助け舟を出そうとしなかったのは数週間の後の話。




                                   Fin.

                                2011. 9.14  



虫さされの跡がが真っ赤になったのは私です。
私でこの赤さなんだから、ヒル魔さんならさぞかし、と思ったらこんな話になりました。
まだ「暑い」と言える時期のうちにupできて良かった・・・。