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薔薇の名前
買い物の帰り道。日差しの暖かさに目を細める。 眠りから目覚めるように草木が芽吹き花が綻んでいく季節、春。 道端に咲く小さな花に目をやりながら、セナはゆっくり家路をたどった。 買い物の帰り道を堪能して家の手前でふと見上げると、2階のカーテンが開いているのが見えた。 ヒル魔さんが帰って来てる! ドキリと跳ねた鼓動に合わせて走り出そうとしたその時。 「わぁっ!!」 目の前に迫った地面に思わず目をギュッとつむったが、なかなかこない衝撃にそろそろと目を開く。 最初に目に映ったのは真っ赤な薔薇。 胸元に飾られたその薔薇の美しさに見取れながら徐々に目線を上げると、すっきりとした、それでいて男らしい首と顎のラインが目に映り、最後に自分を見つめる顔が。 そこでやっとセナは自分が抱き上げられているのに気付いて慌ててしまった。抱き上げると言うか、赤ちゃんにする「高い高ーい」のポーズそのまんまである。 「あ、ありがとうございましたっ!もう大丈夫ですからっ」 恥ずかしさに慌てるセナを見てフッと笑い、赤い人はそっとセナを降ろした。 「足元に気をつけて」
言われて見下ろすと、自分が踏んだとおぼしき小石が転がっていた。 「ありがとうございました。おかげで荷物も無事でしたし」 「荷物を助けたつもりはなかったんだけどね。・・・君が怪我をしなくてなによりだよ」 「僕はセナです。あの、お名前は?」 濃い色のサングラスに隠れた目は見えないが、口元が微かに上がったように見えた。 つられるようにセナが微笑むと、一度は下ろされた手がセナの頬に伸ばされる。 どこかぼんやりとした意識で自分に触れようとする手を見ていたセナは、指先を遮るように割り込んできた銃の冷たさにハッとした。 いつの間に後ろに立っていたのか。セナの顔の横にある銃口は、目の前の赤い人に向けられている。 それを理解した瞬間にセナから笑顔が消えた。 「なんの用だ?」 聞いた者の背筋を凍らせる響きでヒル魔が尋ねる。 「フー…偶然だと言っても信じてはくれないだろうね」 肩を竦める仕種は自然で、いきなり銃を向けられた人間には見えない。 互いに少し後ろへ下がって距離をとる。 「フー・・・ ここで会えるとは思ってなかったよ、君にはね・・・」 その言葉にヒル魔の全身から殺気が放たれた。ピタリと寄り添うセナを後ろに庇うように移動させる。 「もう一度聞く。・・・何の用だ?」 「用事かい・・・?」 グラスの奥から向けられた視線がチラリと流された先。今のセナには先程見せた笑顔のカケラも残っていない。 「偶然だと言っただろう。もっとも、君が愛でているていう花に興味がなかったとは言わないが、ね」 「帰りやがれ糞赤目」 「フー・・・ 相変わらず言葉使いがなってないな君は・・・」 その落ち着き払った態度に、ヒル魔の纏う空気が一段と冷ややかになっていく。 「・・・これで最後だ。帰れ」 警戒や怒りを通り越して無表情になったヒル魔と彼に隠れたセナを見て、糞赤目と呼ばれた相手はうっすらと笑みを浮かべると長い足を前に進めた。 「・・・これから、楽しくなりそうだね」 すれ違い様にそう言うと、セナが戻ってきた道をゆっくりと去って行った。
無言のままに部屋へ向かい、セナは買ってきた物を片付けヒル魔はコーヒーを入れる。 ソファーに並んで座り、砂糖とミルクがたっぷり入ったカップを手にしたセナは、ずっと止めていたように息をはいた。 「何もされてねぇか」 「いいえ。転んだ所を助けてもらいました」 「そうか・・・」 「ヒル魔さんはいつ僕が下にいるのに気付いたんです?」 「ん・・・?何となく帰ってきた気がして窓覗いたらな」 「そうですか・・・」 そう呟いてセナはヒル魔に寄り掛かる。そして、まだどこか張っていた二人の気が緩んでいくのが分かる。 「・・・おかえりなさいヒル魔さん」 「ただいまセナ」 ヒル魔の優しい声と1週間ぶりのキスに、セナはそっと目を閉じていった。
ヒル魔が仕事で留守にしていた1週間を埋めるべく互いを確かめた後、心地よい疲れに二人してまどろむ。 うとうとした眠気に閉じかけたその時、セナのまぶたの裏にふいに真紅の薔薇が甦った。 尋ねるとヒル魔の気分を害しそうでためらったが、今聞きそこねるともう答えてくれない気もして恐る恐る口を開く。 「ヒル魔さん・・・あの赤い人は誰ですか」 ピクッと上がった眉に内心ビクビクしながら、セナはじっと待った。 「・・・奴は情報畑の人間だ」 「情報?ヒル魔さんと同じ?」 「冗談じゃねぇ。一緒にすんな」 鋭い舌打ちをすると、苦々しい顔でセナを見る。 情報屋という危ない世界に身を置く恋人が、常に危険と隣り合わせだと知らないセナではなかった。自分が恋人のアキレスになりうる事も分かっている。 そうならないように自分なりに気をつけてはいたのだ。元々臆病で人の顔色を伺う事ばかりしてきたセナは、荒事や鋭い気配を感じ取る術に長けていた。そのおかげで今までヒル魔の手を煩わす事態を何度かかわせてきたのだが、今日の人からはそんな気配はカケラも感じられなかった。 「情報は情報だが奴がいるのは情報部。国がバックについてる」 つまりエリートって奴だなと言うヒル魔はますます苦い表情になる。 ヒル魔の口から取引相手の事を初めて教えられセナは驚いた。 「だが奴は音楽活動もしてるし、園芸関係でもちょっとした有名人でな。この業界でも変人で通ってる」 「変人って・・・」 「たまに出所がつかめねぇネタ持ってやがるが、花から聞いたとかぬかすし」 確かに変な人だ・・・
「近寄りたい相手じゃねぇな。つーか、もう来ねぇだろ」 「でも、またって言ってましたよ」 「何ぃ?!」
「すれ違った時、小さな声で『また、ね・・・』って」
「あんの野郎〜〜〜いいか、奴に近寄るな。いや寄ってくんのは奴か。 近寄らせるんじゃねぇぞ! てか逃げろよテメー!!」 「仮定の話で怒らないで下さいっ!!」 涙目で訴えつつ、敵対関係にあるような人ではなさそうだとセナは少し安堵した。自分の感覚が鈍くなったのかと不安だったのだ。 そういえば名前聞きそこねたなぁと思いつつ、もう会う事もないだろうと気持ちを切り換えたセナは、斜めになってしまった恋人の機嫌をなおそうと、その腕をヒル魔の首にそっとからめたのだった。
翌日から彼の人が薔薇の花束持参で連日セナを尋ねて来る事になるとは、誰も予想できなかった・・・
Fin.
2007.
7. 1
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