夢から覚めた夢



サイドテーブルで起床を促す音が鳴る。腕を伸ばして携帯のアラームを止めた。
上半身を起こして欠伸をひとつ。左手のヒヤリとした感触に、ベッドの左側をさぐっていたと気づいた。
ここはヒル魔が一人暮らしをしている部屋の寝室なのだから見やってもヒンヤリとした温度から分かるとおりソコには何もない。誰もいなくて当然なのだが…。
何か足りない気がするけれど、実際ここにいるのはヒル魔一人。ぼんやりと自分の左側を見ても、少しシワのよったシーツが広がるばかりだ。
だがそんな当たり前の状態が今朝はやけに気になった。
(変な夢でも見たのか?)
そう思うヒル魔の口許は、しかし皮肉さを湛えていた。
ヒル魔は夢を見たことがない。いや、見ているのかもしれないが、起きて「夢を見た」と覚えていたことがないので同じことだろう。見たことがないというと驚かれるが、別に不便があるわけでなし。特段ヒル魔にとって『睡眠時に見る夢』というのはどうでもいいことのひとつであったのだが。
シーツに這わせた手元からなぜか目が離せない。シーツに置いたままの手がまるでそこにあるべきものを求めているようで…。
(そんなもんあるわけねーだろ)
ヒル魔はアメフトが第一で、何をするにもそれ抜きには考えられない生活を送っている。要領よくこなしている自信はあるが、チームのためにやりたいこともやらなければならないこともまだまだある。他の物事に割く時間もなければその気もない。
しかも、「ココにいる」という感覚を信じるならそれは完全なプライベートを指している。
自分の思いつきにバカバカしくなったヒル魔は勢いよくベッドから出て朝の仕度を始めたのだった。


朝練に始まり授業中の情報整理や練習の組み立て。放課後は試したいメニューをどぶろくと相談しつつ自分の練習もこなし、パチパチと瞬いて点いたグランドの照明に(もうそんな時間か)とヒル魔は時計を確認した。
陽が短くなるのが早くなった。涼しくなるぶんにはありがたいが、大会の始まりまでの時間の短さに焦りがヒル魔の胸をチリチリとあぶる。
だが、昔はその場しのぎの助っ人頼みのデビルバッツだったが、今はやる気のあるチームメイトを得た。負けも勝ちも経験し、どぶろくというトレーナーが復帰した今は各個人もチームとしても着実に力はついてきている。攻撃面に穴があるのは非常に痛いが、補強したくても適したメンバーがいないのだからしかたない。
秋大会が始まろうとする今から新たに人材を探して育てるなどできはしない。手持ちのカードに限りがあるなら、それぞれを極めることに努めるだけだ。
用具を片付けて明日の予定を確認後、帰り仕度をすませた部員たちが日誌を書くヒル魔に挨拶して部室から出ていく。
日誌なんてアナログもいいところだが、『泥門デビルバッツ』は高校の部活動なのだから学校が定めたルールには従わなくてはならない。泥門では体育系・文科系ともに『日々の活動を日誌に記録し、月に一度は顧問のチェックを受けること』となっている。これを怠れば予算の停止や活動自体に待ったが入る。面倒臭いとは思うものの、記入に使うたかが数分間を惜しんで試合が出来なくなるなど馬鹿馬鹿しい。
普段はマネージャーに任せているのだが、今日は体調不良で学校を休んでいる。棚から取り出して開いた日誌をペラリとめくると各ポジション毎の練習の要点だけが丁寧な字で箇条書きに並んでいた。
今日の練習を思い返しながら書いていると、ついつい分析に入ってしまいなかなか進まない。
(今日はもう帰るか)
土曜の明日は休養日だ。たまった疲労を残さないよう、そしてまた練習に力を入れられるようきっちり体力を回復させることも選手として重要なことである。といっても、一人暮らしのヒル魔には部屋の片付けや料理の作り溜めなど、のんびり休んでばかりもいられないのだが。
やっと書き終わった日誌を棚に戻し、後ろを振り返りヒル魔は思った。
(ここはこんなに静かだったか…?)
部員たちが帰った部室にはしんとした空気だけが漂っている。使い込まれたロッカー。ヒル魔が持ち込んだテーブル。ボロボロ一歩手前の、たがきちっと手入れされた用具。そこにあって当たり前のモノだけがヒル魔の目に映る。
(なんだってんだ…)
朝の起きた時から今日ずっとヒル魔にちらちらとつきまとって離れなかったあの不思議な感覚。
何か足りない。あるはずのものがそこにない。そんな違和感がヒル魔の胸にふつふつと沸き上がる。
けれど、本当にヒル魔に心当たりなど何一つ無いのだ。
ふと見下ろしたベンチに誰が置き忘れた靴下が片方だけ残っていた。ヒル魔には小さいサイズのそれが、ヒル魔の知らない誰が気付いて欲しいと置いていったかのように見えたが。
(……ハッ、バカバカしい)
汚れたら靴下から視線を外した。靴下は糞デブJrか糞猿の辺りのものだろう。ほうっておいても明日には持ち主が分かる。
ヒル魔は鞄を肩にかけ電気を消すと、やや乱暴に締めたドアに施錠し、すっかり暗くなった夜道を歩き出した。




*****************




サイドテーブルで起床を促す音が鳴る。腕を伸ばして携帯のアラームを止めた。
上半身を起こして欠伸をひとつ。冷えていた左手に温かいモノが当たり、ベッドの左側に小さく丸まって眠る人物に気づいた。
横になっていてもボリュームのある黒髪。左向きに寝ているので顔は見えないが、穏やかな寝息のリズムで肩が上下している。
ヒル魔が見つけて育てたアイシールド21。そしてヒル魔の恋人である小早川セナが眠っていた。
高校時代から付き合いだし、それなりにあった衝突も乗り越え、社会人になった今は二人で暮らしている。ここは二人で探して選んだマンションで、今日は久々にゆっくりできる休日だった。
特に急ぐ用事もなにもないのでもう一眠りしてもいいのだが、寝る前につけたエアコンのおかげで暑くはないが、遮光カーテンの隙間から差し込んだ明かりとなにより先ほどから空腹が音付きでさらなる起床を促してきた。
(コーヒー飲みてぇな…)
まだ豆はあったはずだとヒル魔は体をひねりベッドから出ようとした。それで目を覚ましたようで、もぞもぞと布団の中で向きを変えたセナが開ききらぬ目をこすりながら起き出した。
「まだ寝てていいぞ」
手を伸ばして髪を撫でてやるとうっとりと目をつぶったが、ぎゅっとまぶたに力を込めたセナはパチリと目を開けた。
「起きます。僕もおなか空きましたし」
どうやらヒル魔の腹の虫はばっちり聞かれていたらしい。
「じゃあもっとしっかり起こしてやろう」
撫でていたその手でこめかみをグリグリ押してやる。痛い痛いと言いながらもセナは本気で逃げようとはしない。
「おはようございます」
「ん、はよ」
何度も迎えてきたのと同じ穏やかな朝だ。


パンに目玉焼き。ちぎっただけのレタスにヘタを取っただけのプチトマトのサラダ。濃い目に淹れたコーヒーはヒル魔はブラックで、セナはカフェオレにして。
「今日のご飯、どうします?ちなみに食材はほぼゼロです」
セナがのんびりと聞いてくる。
一緒に暮らし始めた頃、何をするにも「どうしましょう?」と聞いてくるセナに「いちいち俺に聞かねーとなんも出来ないのか」と何度も言ってはヒル魔はイライラしていた。そのつもりはないのだろうが、丸投げに聞こえる聞き方に「好きにしろ」と返してはセナに謝られるの繰り返し。
しかし、言葉が足りなかったのはヒル魔とて同じこと。同じことを繰り返すたび部屋の隅でひたすら大人しく過ごすセナを見て(俺ってこんなカッコ悪かったか?)と情けなさに歯噛みしたのはそれほど昔ではない。
このままではダメだと、話し合い、確認しあって、一つずつ積み重ねてきた。
「昼はコンビニでいいとして。…晩はどっか食いに行くか。買い物は明日でいいだろ」
「はい」
お互い最近はバタバタしていて散らかしようもなかったため、埃をとれば各自の部屋は終了。しかし、比例して洗濯物だけは大量にあったので、洗濯機のスタートボタンは3回押すはめになってしました。ベランダに干しきれない一部を部屋干しのハンガーにかけ終わる頃には早くも腹が鳴りはじめていた。
コンビニで豊富な料理に迷うセナを急かし、明日からの予定を話しながらマンションまでの道をゆったりと歩く。
暑さのピークは過ぎたものの、まだ日差しはきつい。けれど、木陰を選んで歩けば吹く風も幾分かは涼しく感じられるような季節になった。
「洗濯機、新しく買うか」
「?どこも故障してませんよ?」
「もっとでかいやつ」
「要りません」
「3回も回すの面倒だろ」
「普段はあれで十分ですから」
「もっと静かなやつ」
「今のもヒル魔さんが静かなのがいいって買ったやつですよね?」
ニッコリ笑いながら言えるようになったセナ。これも最初の頃ならヒル魔の言うまま従っていただろう。
「もったいないからダメです」
言葉の区切り方やら言い方があの口うるさい幼なじみにそっくりで少々ムカつくけれど、ヒル魔が本気で買い替えたい訳ではないことくらいセナも分かっているから笑って言える。
「洗濯機も冷蔵庫もオーブンレンジも掃除機もエアコンも買って2年もたってませんから。壊れない限り新しいのは買いませんよ」
「しみったれてんな」
「貧乏性なんですー」
すねる口調がポーズだなんて分かっている。けれど。
「バーカ」
ビニール袋でふさがっていない方の手でセナの頭をコツンとつついた。
「物を長く使おうってのは悪くねーだろ」
セナのぱちくりとした目が照れにゆるむ。むずむずさせた口元にあわせて赤くなる頬が柔らかそうで、実際柔らかいことを知っているヒル魔はかじりつきたい衝動を(帰ったら思う存分やってやると決めて)なんとかこらえた。
ヒル魔から見たセナの生活への姿勢は「慎ましい」の一言に尽きる。洗濯機も冷蔵庫もオーブンレンジも掃除機もエアコンも、不具合が出ても「まだ動くから」と不便をいとわず使っていた。冷蔵庫は製氷出来なくなったのでメインの冷凍室に製氷皿を置いたし、エアコンはリモコン操作を受け付けなくなったため本体のカバーを開けてボタンを押して動かしていた。見かねたヒル魔が買い替えなければ動かなくなるまで使っていたはずだ。
「必要があるもんまで我慢することねーし」
「それはそうなんですけど…」
語尾を飲み込んだセナに「言いたいことも我慢すんな」と促す。
しばらくもにょもにょと口ごもったセナだが、ヒル魔がじっと待っているとうつむいたまま「どれもヒル魔さんと選んだ物だから大切にしたかったんです…」と小さく呟いた。
言った本人も乙女チックな発言だと自覚しているらしく、恥ずかしそうにしているが、聞いた方の照れくささも半端なかった。
(何なんだ、このカワイイ生き物は!!!)
こんな可愛らしいことを言われて、これが叫ばずにいられようか?いや、それ無理だから。もう叫ぶしかないだろう!
(俺のヨメさん、世界一!!!)
しかし、本気で叫ぶほどヒル魔は愚かではなかった。握りこぶしは脇で留めてなんとか顔はキープした。
「バーカ、新しいのも二人で選ぶんだから次はそっちを大切にすりゃいいだけだろ」
「…そっか、そうですよね!また一緒に選びましょうね」
ヒル魔の言葉にセナの顔がパアッと明るくなる。
「帰ったら何飲みます?」
「麦茶」
「そういうかと思って夕べ作っておきました」
得意気に笑うセナの髪をくしゃりとかき混ぜた。
セナが笑う。
ヒル魔も笑う。
二人で作ってきた穏やかで心地よい、ヒル魔にとってかけがえのない日常だ。


ほどなくして部屋に着くと、先に上がったセナがリビングでポツリと言った。
「……なんか朝起きるとまだ夢なんじゃないかって思っちゃう時もあるんです」
泥門でヒル魔に足を見込まれたことも、デビルバッツで皆と走ったことも、今こうしてヒル魔さんといられることも。
そう呟いたセナはしんみりとして、けれどくるりと振り向くとニッコリと笑って続けた。
「でも僕が見てる夢ならきっとケンカなんか出来ませんよね。それにヒル魔さんのデコピン超痛いし!」
「夢とはいえテメーにこんな長くて面倒臭ぇストーリー考えられるとも思えねーしな」
「ううう〜〜〜」
ひどいと言いつつ否定は出来ないらしい。
「腹へった。麦茶」
「はーい」
セナの手からビニール袋を受け取り自分の分と一緒にテーブルに広げる。キッチンからカチャカチャとグラスの鳴る音に続き冷蔵庫を開ける音が聞こえ、並々と注がれた麦茶のグラスを2つ置いたセナがヒル魔の正面に座った。
日差しは眩しく、湿気を含む風は肌にぬるく、麦茶のグラスは指先から体温を奪う。
「晩は何食べに行きます?僕、味の濃いもの食べたいです」
「ラーメン」
「じゃあラーメンで」
「ん」
行きつけのラーメン屋、馴染みのスポーツ用品店、よく行くスーパー。住み慣れた町に顔見知りの人々。
「これがテメーの夢ならすげー想像力だな。隠れた才能ってやつか」
「ヒル魔さんの夢かもしれませんよ?」
「俺の夢ならエアコンのボタン押しに乗った椅子から落ちるなんてバカな真似はさせねーよ」
「ううう、その節はスミマセンデシタ……」
自分の隣にセナがいるという将来。
「ヒル魔さんの夢なら世界征服とか出来ちゃいそうですね」
「あぁ?世界なんて管理が面倒もん要らねー」
「ハハハ…、それもそうかも」
「俺が見るなら……」
言葉を途切れさせたヒル魔にセナが「ヒル魔さん?」と呼びかける。
一瞬途切れた意識が戻ってくる。食べかけの昼食、残り少ない麦茶。いつの間にか下がっていた目線をゆっくりと上げれば、真正面でセナがこちらをうかがっている。
「気分でも悪いんですか?横になります?」
「…いや、なんでもねー」
明るい部屋の中で「食べたらダラダラしましょうね」と笑うセナ。
俺ならこんな夢は見ない。無くせないと思うほど大切な存在を作るなんて夢は。得た為に失うことを恐れる世界なんて絶対ごめんだ。
「俺が見るならもっとマシなもんだな」
「どんなのですか?」
興味津々に迫るセナに「言うわけねーだろ」と返せば不満ですと顔に張りつけたが、いくら言いつのってもヒル魔が言わないと言えば言わないとセナも学習済みである。
言えるわけがない。ヒル魔が望む夢はセナがいない世界だなんて。どれほど勝利から遠ざかろうと、どれほど焦燥にかられようと。もしもを叶えられるとしたら…。
「良い夢に決まってんだろ」
この幸せを手にしない夢を。





                                   Fin.

                                2015. 5. 5  


うちのヒル魔さん、怖がりなんです