自分に「特別な人」ができるなんて思わなかった。


『ヴォイス』後編


 朝練に間に合うように家を出たので、当然商店街はまだ開いていないが、同じように朝練に向かうほかの泥門生がすぐ横を歩いていく。当然見知った顔もチラホラまじっている。
 商店街を通り抜ける頃には、セナは気持ち悪さでフラフラになっていた。
 交わされる挨拶。ランニングなどのかけ声。知った顔なのに、聞こえてくるのは別人の、しかも男女入れ替わった声。記憶に残る声とかけられる声のギャップが激しくて、まるで自分が異世界にでもまぎれ込んだような錯覚を覚えてしまう。
 また挨拶を交わした事で自分の声も変わって聞こえる事に気付かされてしまったのだ。
 頭の中でイメージされる声と、実際口から出て耳に入ってくる声がまったく違って聞こえる。これで本格的に気分が悪くなってしまったセナだった。
 フラフラになりながらもなんとか部室に到着したセナだったが、まだ誰も来ていないため部室に入れなかった。カギを持っている人を待とうと思った瞬間、セナは恐ろしい予想に血の気が引く感触を全身におぼえた。
『カギを持っていそうな人物といえば、栗田さんかヒル魔さんかまもり姉ちゃんだよね』
 このままでいけば、あの3人の声も変わって聞こえるだろうという推測くらいはついた。小結や3兄弟やモン太だって例外ではない。一番身近にいる仲間だからこそ、違和感や不快感は気持ち悪いを通りこしたレベルになるに違いない。
 ・・・・・・怖い。
 その時のセナには、もう朝練に参加する気力はカケラもなくなっていた。足音が聞こえたと思った瞬間、部室の裏へ回り込んだ。耳に手をあてて、聞こえないようにとしっかりと押さえる。
 頭の中で作る声はいつも通りなので、聞くな、聞くなとそれだけで頭をいっぱいにする。
 やがて人の気配がなくなり手をはずしても声が聞こえないと分かった辺りまでは覚えているのだが、それ以降の記憶がない。

「張ってた気がゆるんで、気ぃ失ったってトコだろうな」
 要領が悪く順番が前後したりするセナの話し方をまとめながら、ヒル魔は予想もしていなかったセナの状態に、それでもウソだろうとは言わなかった。
「気がついたら練習も終わってて、どうしようとおもったんですけど」
「帰ろうとは思わなかったのかよ」
 ヒル魔の問いに、力なく首をふるセナ。
「帰り道も同じでしょうし、家に帰ったって・・・」
 家には母親がいる。朝は寝ていたので声を聞いていないが、帰れば確実に男声の母親とのご対面となる。
「僕、もうどうしたらいいのかわからなくなっちゃって。今だって自分の声は全然ちがう女の子の声に聞こえてるんです。もう気持ち悪くって・・・」
 自分の声も聞きたくないのか、疲れの目立つ声はとても小さい。
「結局どこにも行けずに部室に入ったものの、予想とおりにけったくそ悪さはピークになったと」
「だって、まもり姉ちゃんの声はスフィンクスの番場さん並に低いし、モン太の声は鈴音並みに高かったんですよ。もう気持ち悪いなんてもんじゃ・・・」
 最後の方は涙声である。
「で?」
「え?」
「俺は医者じゃねぇんだ。どーにかしろなんて言われても無理だ」
「え、え?」
「俺ならなんとか出来ると思って、気持ち悪いのガマンして飛びついてきたんだろ」
「ち、ちがいますっ」
 なんでも出来るならいいが、便利屋と思われるのはゴメンだとばかりにヒル魔の機嫌がかたむいていく。
 表情でそれと察したのか、あわててセナが大声で立ち上がった。
 小声で話していたセナが突然出した大きな声に驚いたヒル魔は、なぜか赤い顔をしたセナを見上げた。
「僕、ヒル魔さんになんとかしてもらおうとか、そんなこと全然思ってません! 思いつきもしませんでした! あ、でもヒル魔さんじゃ出来ないとか無理だとか、そーことでもなくってですねっ」
 言い方がまずかったと思ったのか、必死に言い訳をはじめたセナに「じゃ、どーしてだ?」とヒル魔が聞いた。
 説明が足りなかった事に気付いたセナは、あたふたと動かしていた手を止めた。
「同じなんです」
「あ?」
「ヒル魔さんの声は、いつもと同じに聞こえるんです」
 そしてまたうっすらと頬を染めて、笑った。
「ヒル魔さんの声が聞こえた瞬間、気持ち悪かったのがすぅって消えたんです。ヒル魔さんは怒ってたから声は怖いはずなのに、全然怖く聞こえなくって」
 同じと聞いてやや意表をつかれた顔のヒル魔だったが、セナの笑顔を見た瞬間に動きが止まった。
「怒ってるのも心配してくれてたからかもって思ったら、嬉しくなっちゃって。抱きついたりしてスミマセンでした」
 照れた顔で首をかしげて笑う姿は、とても男子高校生には見えない。
 その時ヒル魔が何か言ったが、小さかったのでセナには聞き取れなかった。
「なんですかヒル魔さん」
「なんでもねーよ」
 ため息をつきながら気にすんなというように手を振る。
「さてと。どーすっかなー」
 セナの状態はわかったが、理由はわからないままだ。第一、声が男女逆に聞こえるなんて病気や症状に心当たりがあるはずもない。さっきまでは笑っていたセナも、不安そうな顔でヒル魔を見ている。
「ずっとここにいるわけにもいかねぇし。とりあえず場所移動するか」
 場所移動と聞いてセナの体がふるえた。
 しかし自分ではもうどうしようもないので、ヒル魔の判断にゆだねようと覚悟を決める。
 ヒル魔は少し考え込んでいたが、移動先が決まったのかカバンを手に持ち、ついてくるようにと手ぶりでセナをうながした。
 人気が少ない道をえらんで進んでくれたようで、セナたちは誰に会うこともなく目的地に着いた。
「音楽準備室?」
「ここなら防音だし、ドアについてる窓にカーテンかけりゃ目隠しになる。楽器の音も変わって聞こえてるか?」
「いいえ、人の声だけです」
 どこから調達してきたのか、ヒル魔は音楽室と準備室のカギを開けてセナに入るようにと呼んだ。
「ここで待ってろ。すぐ戻る」
 しばらくここにいるのかと思っていたのに、出て行こうとするヒル魔の姿にまた不安がこみ上げてくる。
「泣きそうな顔すんじゃねぇよ」
 髪をかきまぜられて見上げると、ヒル魔の苦笑が目に映った。
「お前ここに住むとでも思ったのかよ? しかたないから俺んちに移動だ」
「・・・ヒル魔さんの家ですか?」
「適当なトコがないからな。俺が面倒を見るとも言ったし。それとも家に帰るか?」
 ブンブンブンと首をふって嫌がるセナ。
「ならガマンしろ。タクを呼ぶから、それまで待ってろ」
「はい」
 セナの返事を聞くと、携帯を取り出しながらヒル魔は準備室をあとにした。

 10分ほどで戻ってきたヒル魔に先導されて付いていった正門横には、1台のバイクが停めてあった。
 タクシーと言ったはずなのにバイクとは?
「賊学の連中に持ってこさせた」
 セナの顔色が真っ青になった。
 一瞬でヒル魔の背中にしがみつき、周りに誰がいるのかと震えながらヒル魔の上着に顔をうめる。
「オラ、誰もいねぇから出てこい」
 おそるおそる周りをみわたしたが、確かにどこにも人の姿は見えない。
「バイクだけ持ってこさせたんだよ。それともテメー、あの爬虫類の声が聞きたかったのか」
 首がもげそうな勢いで否定するセナに、ケケケと笑いながらメットを渡す。自分がまたがったバイクの後ろを指し、「乗れ」とうながす。
『ヒル魔さんが運転するんだ・・・』
「賊学の連中にできて俺ができねー訳があるか」
『今、声に出してないんですけど!!!』
「テメーの考えなんざ顔見てりゃ分かるだろ」
 さっさと乗れとばかりにエンジンをふかしにかかるヒル魔の後ろにまたがる。おそるおそる腰に手を回そうとした瞬間に発車され、あわててヒル魔に抱きついた。

 いつの間にかヒル魔の家についていたらしく、バイクが止まったことにも気付かなかったセナは上着をつかんでいた手を叩かれて、ようやく目を開けることができた。
 バイクに乗るのが初めてなのと、とにかくスピードが怖くてずっと目をつぶっていたので、いまどこにいるのかもまったく分からなかった。とりあえず、下りて目の前の建物を見上げる。どこにでもありそうな、いたって普通のマンションに見える。
 バイクを別の場所に停めに行ったヒル魔を待つ間、ボケーっと上を見上げていたら、後ろから蹴りが飛んできた。
「さっさと入りやがれ」
「だ、だってヒル魔さん、ここの入り口暗証番号とかいるんじゃないんですか?」
 確かに入り口横にはそれ用のパネルがあった。
「つべこべ言わず行け」
 あきらめてしぶしぶ前に進むと、まるで自動ドアのように目の前が開いていった。防犯用のただのダミーだったのかと思ったが、閉まると同時になにかのセンサー音が聞こえた気がしたし、監視カメラもこちらの動きを追っている。ドアもゆっくりというよりあわててといった開き方だった事を思い出し、後ろで笑ってる人の恐ろしさを再確認したような気がするセナだった。

 部屋の配置等をざっと説明したヒル魔は学校へ戻っていった。授業のためというより、放課後の部活のためのようだったが。
 部屋にあるものは好きに使ってもいいと許可が出ているので、コップを借りて水を飲んだ。特にすることも無いので部屋の中を見てまわる。少し流しにたまった食器。ソファーの脇につまれた新聞と雑誌。適度に生活感のただよう普通の部屋のようだった。ヒル魔の家と聞いたときには一瞬お化け屋敷を連想してしまったのだが・・・ しかし防音なのは確からしい。外の車の走る音などはまったく聞こえない。
 手持ち無沙汰だったので、食器を洗い、雑誌と新聞を分けて部屋のすみにまとめて置いた。
 テレビで時間をつぶすわけにもいかず、音楽でも聞こうかと思ったが、デッキもコンポも見当たらなかった。
『でもクラシック聞いてるヒル魔さんって想像つかないや』
 かといってロックが洋楽ならどうかと言われるとそれも違うような気がするし、ましてやJ−POPや演歌などは論外だろう。
 演歌と単語が浮かんだところで吹き出してしまう。
『に、似合わない!!』
 着物を着てこぶしを回して歌うヒル魔。
 どうやらツボに入ったらしいセナは、腹を抱えてヒーヒー笑ったあともしばらく荒い息をついていた。そして笑っている自分に少し驚いた。
 朝、これからどうなってしまうんだろうと頭を占めていた不安が、片隅においやられている。
 無くなってしまったわけではないが、それもほんの少し残った程度である。
 状況的には何が良くなったわけでもないのに。
 しかし、少し考えて、自分を落ち着かせた理由をセナは理解した。

 ヒル魔がいたから。

 声が変わって聞こえなかった事はもちろんだが、怒られた事も、なだめてくれた事も、真面目に話を聞いてくれた事も。ヒル魔という存在が変わらずに側にいてくれた事が自分をこんなに落ち着かせている。
 貴重なRBという理由からだとも分かっている。
 でもセナはそれでも良かった。
 初めて自分を認めてくれた人。前を向いて走る事を教えてくれた人。そして仲間を引っ張るだけではなく、一緒に進んでくれる人。
 セナの中では特別な相手。
 ただ、自分の気持ちが憧れなのか尊敬なのか仲間意識なのか。どれも混ざり合っているようでセナには区別がつかない。
 しかし、これがまもりだったら。栗田だったら。モン太だったら。これほど自分は落ち着いていられただろうか。
 答えはノーだ。おそらくひと時の安心は得られても、不安は去らずにおびえ続けただろう。
『ヒル魔さんがいてくれて、良かった』
 心からそう思って、セナはヒル魔の帰りを待つのだった。

 その後、部活から帰ったヒル魔はセナの親に「勉強会」の名目で泊まらせる承諾を取り付けた。セナの耳がおかしくなったのが金曜日だったので、せめて休みの間になんとかなってくれればとの時間かせぎだった、病み上がりのセナを母親は心配したが、テストも近いことだし体調には十分気をつけると念押しして承知させた。場所も栗田の寺と偽り、念の為、他の部員にもそこでの勉強会を命令しておいた。実際テストが近かったし、赤点でも取って補習ともなれば練習時間がつぶされることになるので、ヒル魔にとっては一石二鳥となったのだった。
 金曜はベッドで寝ろというヒル魔と、持ち主を追い出すなんてできないとソファーで寝ると主張するセナが少しもめたものの、病み上がりを理由にセナが押し切られた。
 しかし翌日、朝から申し訳ない気分で黙り込んでしまったセナを見かねて、昼には客用布団が届いた事で一応の決着がついた。
 セナの耳が正常になったのはさらにその翌朝だった。


「結局なんで僕の耳がおかしくなったのか分からないままなんですよね」
 あれ以来、勉強会と称して何度かヒル魔の家に来ているセナは、煮物の火加減を見ながらヒル魔に話しかける。
「それっぽい副作用のある薬ならあったんだけどな」
「え、そんなのあるんですか?!」
「医者で咳止めもらったろ。あれだ」
 驚いて振り向いたままのセナに「鍋から目、離すな」と注意し、ヒル魔は手元の雑誌をめくりながら続ける。
「俺が調べた範囲じゃ、音が低く聞こえるっつーのだったんだがな。テメーみたいに男女逆に聞こえるなんざどこにも無かった」
 おかしな奴ーとからかわれてふくれたものの、気を取り直したようにセナはニッコリと笑った。
「・・・なんだよ」
「だってヒル魔さんが優しいって分かったから。勉強見てもらったり、泊めてくれたり。なんだか特別扱いされてるみたいで嬉しいんです」
 はにかむように笑うセナを凝視した後、ポツリと呟いた。
「鍋、噴いてるぞ」
「えっ、うわぁーーー!!!」
 あわててコンロに向き直り、火を消したり布巾を取り出すセナ。それを見てため息をついたヒル魔はまた雑誌に目を落としたが、うっすらと赤くなっている耳のふちをセナに見られまいと手で隠すのだった。


                             Fin.


                                2006.7.27

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なんとか「後編」です。
結局長くなっちゃいました。
最後ちょっとはラブっぽくなりました、か?